【対談】小澤征爾×村上春樹 くつろげるディープな音楽の話。

小澤征爾の対談は文庫本で3冊出ている。武満徹との『音楽』(新潮文庫)、大江健三郎との『同じ年に生まれて』(中公文庫)、そして村上春樹との本書だ。中でも本書は村上の文体と相まって柔らかく、口語そのもので非常に読みやすい。他の2冊にあるような気負った話はあまりなく、純粋に音楽好きによる音楽好きのための音楽の本であり、お二人がくつろいで楽しそうに話をしている様が目に浮んでくる。せっかくなのでこれはと思った個所をいくつか対談風に抜粋させてもらおう。

カラヤンとバーンスタインの違い(p.46)

小澤征爾
小澤征爾

なんだかカラヤン先生とバーンスタインの比較みたいになっちゃうんだけど、ディレクションという言葉がありますよね。方向性です。つまり。音楽の方向性、それがカラヤン先生の場合は生まれつき具わっているんです。長いフレーズを作っていく能力。そしてそいういうことを僕たちにも教えてくれたわけ。長いフレーズの作り方を。それに比べてレニーの場合は天才肌というか、天性でフレーズを作る能力はあるんだけど、自分の意志で、意図的にそういうのをこしらえていくというところはない。カラヤン先生の場合はひとつの意思として、まっすぐ意欲を持ってやっていくんです。・・・ある場合には細かいアンサンブルなんか犠牲にしてでも、そっちの方を優先します。そして僕たちみたいな弟子にも、それと同じことを要求したんです。

村上春樹
村上春樹

アンサンブルを犠牲にしても……

小澤征爾
小澤征爾

要するに細かいところが多少合わなくてもしょうがないということです。太い、長い一本の線が何より大切なんです。それがつまりディレクションということ。いわゆる方向なんだけど、音楽の場合はそこに『繋がり』という要素が入ってきます。細かいディレクションもあれば、長いディレクションもあります。

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らでぃかるばっは

カラヤンの場合、「ディレクションが強い」というのはよう分かるなあ。アンサンブルの精緻を極めたジョージ・セルに親しんでいるとカラヤンはアクが強すぎる気もするねんけど……

グールドの特異性について(p.88)

村上春樹
村上春樹

グールドの演奏を聴いていて興味をひかれるのは、ベートーヴェン演奏なんかでも、対位法的要素を積極的に持ち込んでいくんですね。ただオーケストラと調和的に音を合わせるというんじゃなくて、積極的に音楽をからめ、緊張感を作っていく。そういうベートーヴェン像は新鮮でした。

小澤征爾
小澤征爾

ほんとにそうですね。でも不思議なのは、彼が死んじゃったあと、そういう姿勢を引き継いで発展させるような人が出てこなかったことです。ほんとに出てこなかった。やっぱりあの人は天才だったのかな。彼の影響を受けた人はいるかもしれないけど、彼みたいな人は出てこなかった。だいいちに、あそこまで勇気のある人がいないでしょう。僕から見ると。

村上春樹
村上春樹

いろいろとたくらんだ演奏をする人はいても、そこに本物の必然性というか、実態が伴っている場合は少ないですね。

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らでぃかるばっは

っまあグールドみたいな詩情あふれる感性とポリフォニーを弾き分ける技術を併せ持った人はホンマにレアな存在やと思うな。

レコード・マニアについて(p.109)

小澤征爾
小澤征爾

あのね、こんなことを言うと差し障りがあるかもしれないけど、僕はもともとレコード・マニアみたいな人たちがあまり好きじゃなかったんです。お金があって、立派な装置を持って、レコードをたくさん集めている人たち。僕はその昔、お金なんてなかったんだけど、そういう人たちのところに行ったことがあります。行くと、フルトヴェングラーだとか誰だとか、そういうレコードがずらっと揃っている。でもね、そういう人たちって、なにしろみんな忙しい人たちだから、家にいる暇なんてあまりなくて、ちょこっとしか音楽を聴いていないんです。

村上春樹
村上春樹

お金のある人は、だいたいにおいて忙しいから。

小澤征爾
小澤征爾

そうです。でもね、あなたと話していて僕がいちばん感心したのは、あなたの音楽の聴き方がとても深かったということなんです。僕から見ると。あなたの場合は(レコードをたくさん集めてはいるけれど)いわゆるマニア的な聴き方じゃないんですね。

村上春樹
村上春樹

というか、僕は暇だし、だいたい家にいるから、ありがたいことに朝から晩まで音楽を聴くことができるんです。ただ集めるだけじゃなくて。

小澤征爾
小澤征爾

レコードのジャケットがどうとか、そういうところじゃなくて、しっかり中身を聴いている。そういうところが、話をしていて、僕としては面白かったわけなんです。

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らでぃかるばっは

村上春樹って、まじでクラシックよう聴いてるよね、『古くて素敵なクラシック・レコードたち』(新潮社)ではレコード・マニアぶりが全開でそれはそれでおもろかったけど。ぼくもただのコレクターやなくて、音楽の中身を深く追求していきたいと思てます。

小澤征爾の指揮について(p.205)

村上春樹
村上春樹

僕が思うに、とにかく小澤さんの場合、全体を統一してまとめあげる力がものすごく強いんですね。そこには常に実に一貫したものがあります。迷いみたいなものがない。それは小澤さんの個人的な資質ですか?

小澤征爾
小澤征爾

あのですね、そうだなあ、ひとつ言えるのはね、若いうちから技術がもうぴったりと、僕の身体からだに入っていたということがあります。それは斎藤先生が与えてくれた技術です。大抵の指揮者は、若いうちにさんざん苦労するんです。その技術を自分の身に着けるために。

村上春樹
村上春樹

技術というのは、タクトを振る技術ということですか?

小澤征爾
小澤征爾

そうそう。オーケストラを仕込む技術。本番のときにどう振るかなんてほとんどどうでもいいんです。どうでもいいというと言い過ぎだけど、まあそんなに大変なことじゃない。それとは別に、練習のときにオーケストラを仕込むための棒の振り方というのがある。これがいちばん大事なんです。僕はそれを斎藤先生から教わりました。

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らでぃかるばっは

「斎藤先生」こと斎藤秀雄の名著、『指揮法教程』はある意味宇宙一の指揮法の教科書かもしれへん。そんな斎藤先生に小澤が多くを学び、感謝と畏敬の念を持っていることがひしひしと伝わってくる。本番はほとんどどうでもいいというのは意外やけど。

マーラーの音楽をめぐって(p.245)

小澤征爾
小澤征爾

結局ね、マーラーってすごく複雑に書いてあるように見えるし、またたしかに実際にオーケストラにとってはずいぶんと複雑に書いてあるんだけど、でもマーラーの音楽の本質っていうのはね――気持ちさえ入っていけば、相当に単純なものなんです。単純ていうか、フォークソングみたいな音楽性、みんなが口ずさめるような音楽性、そういうところをうんと優れた技術と音色をもって、気持ちを込めてやれば、ちゃんとうまくいくんじゃないかと、最近はそう考えるようになりました。

村上春樹
村上春樹

うーん、でもそれって、口で言うと簡単だけど、実際にはすごく難しいことじゃないんですか?

小澤征爾
小澤征爾

うん。もちろんそりゃ難しいんだけど……あのね、僕が言いたいのは、マーラーの音楽って一見して難しく見えるんだけど、また実際に難しいんだけど、中をしっかり読み込んでいくと、いったん気持ちが入りさえすれば、そんなにこんがらがった、わけのわからない音楽じゃないんだということです。・・・ということはつまり、ある部分を演奏する人はもっぱらその部分だけを、一生懸命やればいいわけです。別の部分を演奏する人は、そっちとは関係なく自分のところだけをまた一生懸命やる。そしてそれを同時にあわせると、結果としてああいう音が出てくる。要するにそういうことなんです。

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らでぃかるばっは

マーラーって初めて聴いたときは正直騒音でしかなかったけど、いつの間にかまるで人生そのもののような深い音楽に聴こえるようになるから不思議なもんやな。耳がマーラーになじんでくると、小澤さんが言っているようなそれぞれのパートが歌って全体が立ち上がってくるっていうのが、よう分かるわ。

日本人がクラシックを演奏するということ(p.288)

小澤征爾
小澤征爾

日本人、東洋人には、独自のかなしみの感情があります。それはユダヤ人の哀しみとも、ヨーロッパ人の哀しみとも、少し成り立ちの違うものです。そういう心のあり方を深いところできちんと把握し、理解すれば、そしてそういう地点に立ってしっかりと選択をおこなっていけば、そこには自ずから道が開けると思います。東洋人が西洋人の書いた音楽を演奏する独自の意味も出てくる、ということです。そういうことを試みるだけの価値はあると、僕は考えています。

村上春樹
村上春樹

表層的な日本情緒、みたいなことじゃなくて、もっと深いところまで降りていって、それを理解し、取り込まなくてはならない。そういうことですか?

小澤征爾
小澤征爾

そうです。日本人の感性をいかした西洋音楽の演奏というのは、もちろんもしそれが演奏として優れていればということですが、それなりに存在価値のあるものだと僕は思いたい。

らでぃかるばっは
らでぃかるばっは

小澤征爾という人はおそらく、世界と股にかけて活躍した分、あちこちで「日本人にクラシックが分かるものか!」といった類の批判や罵声をいやというほど浴びたんとちゃうやろか。想像やけど。そこで彼なりに行きついた答えは、単にどこまでもヨーロッパ流の奥義を極めてヨーロッパ人そのものになるということやなくて、あくまで日本人として、日本人にしかできない演奏をするという覚悟と矜持やったんやろう。そのバイタリティがあってこそ、「世界のオザワ」足りえたんやろし、この人がこうして活躍してくれたからこそ、日本人やアジアの演奏家の活躍の場が開けた、ということもあるんとちゃうかな。その意味で、小澤の功績はホンマに大きいと思う。

***

小澤征爾は並々ならぬ人間的魅力を湛えた人であり、そうであればこそ、カラヤンやバーンスタインといった巨匠の下で勉強することができて、指揮者として大きく開花することができたのだろう。彼だからこそ知っている話、彼なりの到達点から見える景色、そういったものが、あくまで音楽には素人としての村上春樹との語りの中で、鮮やかに描かれている。その様子は、以上の抜粋でもよく分かるかと思う。この対談が母国語で読めるというのは、日本のクラシックファンにとって、大変な喜びだ。その機会をくれたお二人に、あらためて感謝したい。

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